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倶梨伽羅紋紋

2006年11月18日

「何でそんなモンモンの絵描いてるの?」
友達が暖簾の注文をして下さる同級生を連れ、私の机を
見て発した言葉です。
男の出世を託した吉祥紋がそんな風に見えるのかと
びっくりしました。強烈なメッセージが有る者は
好き嫌いがはっきり分かれるものだと気を取り直し
冷静に考えてみました。
そもそも己が素肌に直接友禅をされている方々は、
倶梨伽羅紋紋を縮めてモンモン。
縮めて言わなければ倶梨伽羅龍王の紋。
倶梨伽羅龍王は不動明王の変化身。
仏を守護する最強のボディーガードであり
強大なパワーの象徴でもあります。
そんな力に憧れ頼ったりするのは、弱いからだと
思われるかも知れませんが、裏を返せば、
己が弱さを認めた者が、初めて真の強者の階段を
登ることができる。
現に長期間に及ぶ痛みと発熱に耐え、己が弱さと向き合い
それを克服した者は、背中に描かれた絵と同調する
と言います。
話が変な風に逸れましたが、私達は肌に直接描かずとも
羽織の裏地や、持ち物に、手拭にその文様を描けば
いいのです。
使う人がその意味するところを知っていれば、
吉祥紋は応えてくれます。
なぜならば、それは単なるデザインでは無く
スピリットだから。

私の楽しみ

今日は、月3回のお楽しみ能管のお稽古日でした。
能管というのは能の中で使われる横笛です。
高いひしぎの音で神を呼び、メロディーは心の
移り変わりを表現します。
音楽の素養も無く、楽譜も読めぬ私ですが、
これだけはなぜか好きで続けております。
大好きな能管ですが一つ、残念な事があります。
和の習い事特有なのかもしれませんが、曲に位があり
なかなかやりたい曲を教えていただけない事です。
普段は先生のおっしゃる通りに地道にやりますので
たまには、難しいけれど好きな曲を習いたいのです。
先生としたら、今その曲をやってもうまく吹けないだろう
とか、今のお月謝では無理、と思っていらっしゃるのかも
しれませんが、出し惜しみせず教えてほしいな~
とずーっと思っています
教えていただけるまで、頑張るぞ!!

タトゥーのような筒描き

2006年11月09日

風呂敷の筒描きは、まるで入れ墨の様です。
糊で防染した内側を猪の毛を使った刷毛で
こするように色をさす。
塗るではなく、さすと言った方が近い気がします。
生地の中まで入り込んだ色が発色した時、
色に命が宿るようです。
糊は、ゴム糊ではなく、うるち糊に食紅を入れた
本当の友禅糊。
生地は木綿ではなく、しぼの深い鬼しぼ縮緬。
私がこの仕事をして行こうと決意したきっかけが、
筒描きの風呂敷でした。
 
この筒描きの凄味を風呂敷だけではなく、何かもっと
他のものに、物を包むものではなく、身にまとうもの。
たとえば、漁師が大漁を祝う時にまとう、
萬祝いという大きな半纏。
厄年に魔を跳ね返す結界として身にまとうもの
還暦を祝う男の晴れ着
そのような物を作ってみたいなあ
と最近考えています。

皆様、厄年に着て下さいますか?

登龍門

2006年11月08日

今日はご依頼のデザインを書いていました。
それは、男物の絵で、鯉が龍門を登り、水を蹴り空を
駆け上って龍となる姿です。
登龍門を登る男の出世柄として最強の意匠と言えるでしょう。
それを描いている時、昨日来られた母と子が
瞼に浮かんできました。
とても小さな男の赤ちゃんと、それを慈しむ母の姿。

滝を登る鯉の勇姿。
医療の未発達な昔は、女の子と違い抵抗力の弱い男の子は、
あっけないくらいころころと死んだのでしょう。
親の切ない思いを受け、さばかれ切り刻まれても死なない
鯉の生命力に縋り、着物の表に裏に、端午の節句の空に
泳がしました。
また、成長してもうかうかしておれません。
家族を守り、出世という使命をおび、鯉は人生の関門を
くぐり抜け、龍にならなければならないのです。
その龍の全身は、九つの吉相と九×九=81の鱗を持ち
陽の極まる九の数字に守られています。
弱く成長の遅い男の子は、あらゆる精霊の力を借り、
その全身を守られているのです。
親、先祖の血の滲む思いに胸が詰まります。

おしめ30枚

2006年11月07日

今日、日本手拭をおしめにしたいと、かわいい赤ちゃんを
連れた若いお母さんが来られました。
今時紙おむつではなく、布のおしめを洗っておられるなんて。
しかも一日30枚!
そして何より素晴しいのは、楽しんでやっておられる事です。
我が子に白いだけのおむつではなく、色とりどりの手拭を表に使う。
それは何とも言えぬカラフルでモダンな感じが目に浮かび、
思わずにんまりとほほえんでしまう光景です。
布おしめをしてもらっている子供は、どことはなしに穏かで、
にこやかでした。
きっと大きくなったら、やさしい人になるのでしょうね。
紙おむつをやめ、おしめを晒木綿の日本手拭にすれば
いじめや、すぐ切れる子供が減るかも、と思いました

私の仕事

2006年11月06日

仕事は、何ですか?と聞かれて、繊維製品製造卸です
と、答えるとそれっきり何の反応も無く、話がそれで終わってしまう事がよくあります。
呉服屋ですとか、友禅作家ですとかタオル屋です。と一言で
家業が言えれば、どんなにすっきりするだろうと
思っていました。
染の世界は、分業化されています。その方が、効率よく
安定し、増産できるからです。
そして、責任も細分化され不上がりが出た場合、
調査がしやすいと言う事です。
このお陰で京都は、あたかも街全体が工場であり
ベルトコンベアーに乗せるがごとく物が出来上がる
まさに職人の街です。
しかしその反面、細分化された責任を逆手に取り
責任の押し付け合いが起こります
しかも全責任を負う問屋が、真っ先にクレーム逃れ
をしています。
着物が売れなくなるとこの現象が起き、そのしわ寄せが
もろに、製造に携わる人に来るのです
私がこの商売に入った時は、もう末期的な症状でしたし
家業を子供には継がせたくない、という人達ばかりでした
違った切り口で技術を生かし、残す方法は無いかと
和と洋を組み合わせたり、他業とのコラボレーションとかを
試みておりますが、まだまだ利益とは結びついてはおりません
 
ものづくりという事に携わり、色々な失敗や喜びを通して
最近つくづく思うのは、
無から有を成す、形あるものを生む製造業には、
そのものに念がこもるという事です
仕事を通じて沢山の不思議な体験をして解った事は
責任の重さだけ念が宿ると言う事です
もうこれは、私の哲学というより皮膚感覚に近いものです

京都の染色製品は、きれいだけれども力が無い
と感じるのは、私だけでしょうか
力あるものは、一人で完結する作家や職人の物だけです
しかしそれは、産業ではありません
細分化された責任を一手に引き受け、薄められた念を
充填する。それは携わる、物言わぬ作り手の気持ちを、
代表して表現することであり、労力を無駄にしないための
すり合わせをしたり、きめ細かな気配りを通して
込められる物が、一言で表現すれば
念を入れる
これが無ければただの物、なんの意味もありません